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神戸地方裁判所 平成元年(ワ)1757号 判決

主文

一  被告らは、原告甲野太郎に対し、各自金三〇〇三万五〇〇〇円及びこれに対する昭和六一年四月一二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告らは、原告甲野花子に対し、各自金二九〇三万五〇〇〇円及びこれに対する昭和六一年四月一二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告らのその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は被告らの連帯負担とする。

五  この判決第一、二項は、仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

一  被告らは、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)に対し、各自金三〇七四万円及びこれに対する昭和六一年四月一二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告らは、原告甲野花子(以下「原告花子」という。)に対し、各自金二九六四万円及びこれに対する昭和六一年四月一二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、原告らが、原告らの子の亡甲野一郎(以下「一郎」という。)は医師である被告らの診療上の過誤によって死亡し、損害を被ったとして、被告らに対し、民法七一九条一項(共同不法行為)もしくは診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償を請求した事案である。

二  争いのない事実等

1 (当事者)

(一) 原告らは夫婦であり、一郎(昭和五九年五月四日生)は原告らの長男である。

(二) 被告松本靖成(以下「被告松本」という。)は、同被告の住所地において「松本外科」の名称で医院を経営する開業医であり、後記一郎に対する手術を行った者である。

(三) 被告石井昇(以下「被告石井」という。)は、神戸大学付属病院に勤務する胸部・循環器外科医師であるが、被告松本の依頼に応じ、後記一郎に対する手術に麻酔担当医として関与した者である。

2 (一郎の手術と死亡)

(一) 一郎は、両側鼠蹊ヘルニアに罹患していたことから、昭和六一年四月一二日、松本外科において、被告松本の執刀と、被告石井の麻酔担当のもとで、右疾病の治療手術(以下「本件手術」という。)を受けた。

(二) 本件手術は、同日午後一時三〇分過ぎころから、GOF(笑気ガス・酸素・フローセン)の全身麻酔を施行して開始されたが、一郎は、右手術中の同二時五〇分ころ、心停止にて死亡した。

3 (麻酔記録と看護記録)

本件手術の際の一郎の脈拍及び血圧を測定した記録として、被告石井が作成した麻酔記録(乙一中の<20>・以下「本件麻酔記録」という。)と、本件手術に立ち会った看護婦が作成した看護記録(乙一中の<18><19>・以下「本件看護記録」という。)とがあり、その記載内容はそれぞれ別紙麻酔記録及び別紙看護記録のとおりである(その内容を対比すると、別紙脈拍等対比表のとおりとなる)。

三  争点

本件の争点は、次の点にある。

1 本件手術の際の看護記録、麻酔記録等の改ざんの有無

2 本件手術についての被告らの過失の有無(被告らの責任の有無)

3 一郎の死亡による損害の額

第三  原告らの主張

一  本件手術についての記録の改ざん等

1 麻酔記録、看護記録等の改ざん

本件麻酔記録、本件看護記録、手術記録等は、本件手術の際に作成されたものではなく、それとは全く別のものに書き替えられたものである。その事情は以下のとおりである。

(一) 看護記録

看護記録については、本件手術の一週間か二週間位後、被告石井が新しい看護記録作成用のメモを作成して、本件手術に立ち会った看護婦長谷(旧姓古川)祥子(以下「長谷」という。)と同岸本(旧姓吉田)早百合(以下「岸本」という。)に右メモと同一内容の看護記録を作成するよう指示し、右両名は、他の看護婦にも記載を求めて右被告石井の作成したメモのとおりの全く新しい看護記録を作成したが、これが本件看護記録である。本件看護記録は、本件手術の際に作成された看護記録とは、次のとおりその内容が全く異なり、しかも杜撰で、著しく事実に反する記載がなされている。

(1) 麻酔導入開始後執刀までの間の麻酔管理の重要な時期の血圧、脈拍は、現実には二分ないし五分間隔で測定されたにもかかわらず、看護記録にはほとんど記載されていない。現実には脈拍が最高二〇〇(一分間・以下同じ)を超えたのに、これが全く記載されていない。

(2) 血圧と脈拍を同時に測定したにもかかわらず、血圧のみを記載して脈拍の記載が欠落した箇所が多数ある。本件手術の際に作成された看護記録には、「心電図モニター設置」、「心臓停止」、「呼吸停止」、「心室細動」等の記載がなされていたにもかかわらず、本件看護記録にはこれらの記載が全くなされていない。

(3) 松本外科には幼児用の気管チューブは備えられておらず、現実には一郎に気管内挿管できなかったにもかかわらず、本件看護記録では、一郎に気管内挿管がなされたかのような記載がされている。

(二) 麻酔記録

麻酔記録については、被告石井が、本件手術後、本件手術の際に作成した麻酔記録と異なる新たな麻酔記録を作成した。その新たに作成された麻酔記録が本件麻酔記録である。被告石井は、この本件麻酔記録を基に看護記録(本件看護記録)を作成するよう看護婦に指示した。

(三) 手術記録

被告松本は、被告石井の作成した本件麻酔記録と同被告の指示で作成された本件看護記録を基にして、本件手術直後に作成された手術記録と全く異なる手術記録を作成し、更に診療報酬請求の前提となる診療処置表を作成した。

2 本件看護記録及び本件麻酔記録の記載の信用性

(一) 一郎の脈拍及び血圧についての本件看護記録の記載内容と本件麻酔記録の記載内容は著しく異なるが、看護婦は一郎の死亡について何ら責任を追及される立場にはないから、看護婦には虚偽の記載をしなければならない何らの動機もないのに対し、被告石井には、もし本件看護記録の記載が残されていれば一郎の死亡について自己の責任を追及される可能性があったことから、虚偽の記載をする十分な動機がある。

(二) 更に、本件看護記録の記載内容は、本件手術時の一郎の状態等から医学的機序に適合しているのに対し、本件麻酔記録の記載内容は極めて不自然なものである。

すなわち、一郎は、一四時の被告松本の執刀時少し動いたことが確認されているが、それは浅麻酔の状態を示すものであり、そのような状態にあるときに執刀された患者の心拍数は執刀直後に上昇するとされているが、右執刀直後における一郎の脈拍数は、本件看護記録では上昇を示しているのに対し、本件麻酔記録では執刀後も殆ど変化が見られず、一〇分近く経過してからわずかに上昇しただけとなっている。

また、心停止に至る経過においても、脈拍は突然ゼロになるということはなく、徐々に減っていくものであり、血圧についても、突然触知不能になるのではなく、七〇、六〇と徐々に低下して、その後に触知不能になるという経過を辿る。したがって、何の予徴もなく、正常な心拍を打っていた心臓が突然停止し、血圧が突然触知不能になるようなことは、通常はありえない。

(三) これらのことからすると、本件看護記録に記載された内容の方が、本件麻酔記録に記載された内容よりも前記の通常の推移を示すものであり、一郎が心停止に至る経過を無理なく説明できるものである。

したがって、本件麻酔記録の脈拍数の記載よりは、本件看護記録の脈拍数の記載の方が信用性がある。

3 本件看護記録の血圧の記載

換気不全から低酸素血症が生じ、心停止に至る場合は、心拍出量が減少するとともに血圧も低下すると考えられているが、本件では血圧の変化が少ないという不自然な経過がある。この点は、以下のように考えられる。

(一) 血圧の変動はもともと少ないこと

もともと、血圧の急激な低下は生命に危険を生じるので、末梢部分が犠牲になってでも末梢血管が収縮して血圧を上げようとするので、実際には血圧は下がりにくい。したがって、心拍数の変化に応じた血圧の変化が少なくても、説明がつかないわけではない。

(二) 本件看護記録の血圧の記載の信用性

本件看護記録の血圧の記載の信用性には疑問がある。すなわち、本件手術中の一郎の血圧はすべて看護婦が測っていたが、立ち会い看護婦の一人である本村(旧姓岡田)みつ子(以下「本村」という。)は、そもそも看護記録そのものが改ざんされたと指摘している。血圧の測定は、麻酔導入開始後、執刀前に長谷が本村と交替して担当しており、本村は脈拍の測定を担当していた。長谷は、医師から指示されて看護記録を補充したと述べている看護婦であり、本村は、直接には長谷から看護記録の改ざんを指示されたと述べている者である。長谷は、看護記録のうち、一四時二分、二〇分、二五分、三〇分、三五分、四一分、四五分と、一郎に脈拍の異常が生じた以後の殆どの記載をしている者である。右のように、看護記録の改ざんに積極的に関与したことが窺える看護婦が関与した血圧の記録は、そもそもその信用性に大きな疑問がある。更に、本村は、血圧を測っていた時点では、一郎の血圧は低くて測定しにくかったと述べており、そのような異常も窺えない本村看護記録の血圧の記載は、虚偽である可能性が大である。

(三) 本件看護記録及び本件麻酔記録記載の血圧の経過そのものの異常さ

本件看護記録及び本件麻酔記録の各血圧の経過は、次のとおり極めて不自然であり、それらをそのまま信用することはできない。

(1) 本件手術の執刀時、一郎は浅麻酔の状態にあったのであるから、執刀と同時に、脈拍と同様血圧も上昇していなければならないが、本件看護記録及び本件麻酔記録では、執刀後も血圧は全く変動しておらず、むしろ執刀の約八分後に血圧が低下しているという極めて不自然な記録となっている。

(2) 本件看護記録によれば、脈拍が異常な変動を示しているにもかかわらず、血圧だけが殆ど変化していないという点でも不自然である。少なくとも脈拍が一四時一五分から一四時四〇分にかけて急激に低下している過程では、一郎の心臓に異常が生じつつあるのであるから、血圧にもっと変化が生じるのが自然であるのに、殆ど変化がないものとなっている。

二  被告らの過失

1 一郎の心停止の原因

(一) 一郎の心停止は、気道狭窄(舌根沈下等を原因とする)による換気不全から酸欠状態が生じ、これが解消されないまま、麻酔薬の過剰投与が加わり、舌根沈下等による呼吸抑制を助長させ、更に心筋機能の抑制が相まって生じたものである。その理由は、以下のとおりである。

(1) 一郎は、麻酔施行時に号泣しており、陥没呼吸をしており、この時点で既に気道狭窄(舌根沈下等が原因)による換気不全を起こしていたと考えられる。したがって、一郎はこの時点から酸素不足に陥っていたことになる。これに対して換気不全を解消する措置がとられないと、血液内の酸素濃度が低下し、炭酸ガス濃度が上昇し、血液のPHが変化する。これを正常範囲に保ち、酸素濃度が十分に末梢組織に送られるようにするため、生体は呼吸数を増やしたり、心拍数を増やそうとする。ところが、酸素不足状態が更に昂進していき、血液のPHが異常値まで移行した段階で、徐脈になり、あるいは心臓の筋肉が異常な反応を示して心室性期外収縮などの不整脈が起こり、心停止に至る。一郎は、右のような経過を辿って心停止に至ったものである。

(2) 本件看護記録の脈拍数の動きは、まさに右に述べた低酸素血症から心停止に至った経過を裏付けている。

すなわち、本件看護記録によると、一郎の脈拍は執刀後一五分までに急激に上昇している。浅麻酔時の執刀による脈拍上昇は、執刀後二ないし三分までに起こり、そうでなくとも一〇分以内には起こる。したがって、一五分も続く上昇は長すぎるし、更に一八〇まで上昇するのも異常過ぎる。それゆえ、執刀による刺激のみによって、この異常な脈拍の上昇の持続が生じたものとは考えられず、この段階で、酸欠状態、すなわち低酸素血症の前兆としての頻脈が起こっていたことが裏付けられるのである。その後、一四時一五分ころに換気不全による低酸素血症がピークに達し、その後は、心筋機能が抑制され、急激な心拍数の低下を招いたと考えられる。

(3) 更に、本件においては、高濃度の麻酔薬の投与が、一郎の心筋に抑制的効果を果たしている。

すなわち、本件手術時、フローセン麻酔は、導入時こそ一・〇ないし一・五パーセントの濃度で施行されているが、一四時(執刀)前に二・〇パーセントに濃度が上げられ、更に一四時の数分後に二・五パーセントと濃度が上げられている。この二・五パーセントの濃度のフローセンが吸入されたら、心臓に悪影響を及ぼす原因となる。

本件手術時一郎にはマスクがヘッドバンドで固定装着されており、麻酔の投与効率は高く、一郎の麻酔薬の吸入量は多く、適正濃度を超える高濃度の麻酔が心筋に悪影響を及ぼし、心筋を抑制する効果を果たしたと考えられる。

(二) 気管支痙攣等による気道閉塞又は迷走神経反射による心停止の可能性(被告らの主張)について

(1) 一郎は、本件手術中に呼吸不全を生じた事実はなく、被告石井は、心室細動があって突然心停止したと明言していること、急速な気道閉塞による換気不全で心停止が生じたのであれば、一郎を容易に蘇生させることができたはずであること等からして、一郎の心停止の原因は気管支痙攣等による気道閉塞によるものではなかったといえる。

(2) また、迷走神経反射は、何の原因もなしに起こる例はなく、酸素欠乏という状態が根底にあって、心臓の周辺を触るとか、気道の周辺を刺激するとか、胸を刺激するとかといった、何らかの手術操作で迷走神経を刺激したような場合に起こるものであるが、本件手術中に右のような迷走神経を刺激するような特殊な手術操作がなされた事実はない。のみならず、迷走神経反射による心停止の場合は、蘇生は容易であり、被告らが一郎に施したと主張しているような蘇生術が施されていれば、一郎の蘇生は可能であった。

(3) 被告らは、一郎に右蘇生を妨げるような心疾患があった可能性を指摘している。しかし、心臓に疾患があって急激な心停止が起こり、専門医が適切な蘇生術をとっても救命できなかったとすれば、一遍の手術では修復できないような複雑心奇形(複雑心疾患)が存在したとしか考えられないが、そのような複雑心奇形があるような場合は、心電図所見や、チアノーゼの有無、呼吸状態などで診断が可能であるところ、一郎にそのような複雑心奇形の徴候は一切なかった。

(4) したがって、一郎の心停止が迷走神経反射によって生じたことは否定される。

2 被告らの過失

被告らには、本件手術を施行するに際し、以下のとおり、医師として、医学界における水準的知識、技術を駆使して、一郎の生命に危険な結果を招来することのないよう施術すべき注意義務を負っていたのに、これを怠り、そのため一郎を死に至らしめたものである。

(一) 問診及び術前検査義務の懈怠

本件手術はフローセン麻酔薬による全身麻酔を施して実施されているが、このような麻酔手術を施行するに当たっては、医師として、患者の体調についての問診、身長・体重・体温・血圧の測定、心電図検査、電解質検査等の術前検査を行うべき注意義務があった。もし、一郎に複雑な心奇形のような重大な心疾患が存在し、それが一郎の救命を妨げたのであるならば、右のような心疾患は右のような術前検査によって存在が確認でき、そうすれば一郎の死亡を回避する処置をとることができた。

しかるに、被告らは、一郎の体温と体重を測ったのみで、右問診及び術前検査を一切行わなかった。

(二) 術中管理の注意義務の懈怠

(1) 当初の陥没呼吸時点における注意義務懈怠

一郎は、麻酔施行時陥没呼吸を起こしており、したがって、気道狭窄による換気不全を起こしていたと考えられる。

そのような患者に対して手術に着手し、続行することは、手術刺激によって患者の全身状態が変化を受け、麻酔管理をより困難にするから、被告らは、一郎に陥没呼吸が見られた時点でその原因を除去し(換気不全を解消し)、全身状態が安定してから手術を開始すべき義務があった。仮に、右陥没呼吸が手術開始後に生じたのであれば、被告らは、一旦手術を中止し、下顎挙上により気道を確保し、陥没呼吸の消失を確認し、全身状態の安定を待って手術を再開すべき注意義務があった。

しかるに、被告らは、右注意義務を怠り、右のような措置をとることなく漫然と麻酔及び手術を開始し、これを継続した。その結果、一郎は、その後の被告らの麻酔の過剰投与による舌根沈下を伴って、より強い気道狭窄を起こし、心停止から死亡するに至った。

(2) 頻脈が生じた時点における注意義務懈怠

本件手術のような全身麻酔による手術においては、医師は、患者の血圧、脈拍のほか、呼吸状態、心電図等につき、細心の注意を払い、患者の容態を常時監視すべき注意義務があった。

すなわち、フローセン麻酔中不整脈がしばしば誘発されることは医学上の常識であるところ、本件手術中においても、一郎の脈拍数は一四時八分ころから一五分ころにかけて、一六〇ないし一八〇まで異常に急上昇し(頻脈の発生)、[1]度のAVブロック(心臓伝動経路の機能抑制)が生じており、被告らは看護婦から脈拍と血圧の測定値をその都度報告されてそれを認識していたから、右脈拍急上昇の段階で、被告らは、一時手術と麻酔を中断し、換気不全を解消するための措置をとるべき注意義務があった。このような措置をとることなく漫然と麻酔を続行すれば、数分から数十分後には酸欠による体内異常が致命的なものになるからである。

しかるに、被告らは、一郎の右脈拍の異常を知りながら、右換気不全の措置をとらなかった。仮に、被告らが一郎の右脈拍の異常に気づかなかったとすれば、被告らには、心電図等による一郎の容態の監視を怠った過失がある。

被告らが、右換気不全解消の措置をとっておれば、一郎の死亡は回避できた。

(三) 頻脈に引き続いて徐脈が生じた時点及び脈拍が八〇になった時点での注意義務懈怠

一郎には頻脈発作に引き続いて徐脈や不整脈が生じており、そのような場合には、酸欠状態による低酸素血圧による異常事態と高濃度のフローセン麻酔の施行による心筋抑制効果が生ずることがあるから、被告らは、右の事態の発生を予見し、補助呼吸などを実施して換気不全を解消するとともに、麻酔濃度を下げるべき注意義務があった。更に、一四時四一分に一郎の脈拍数が八〇に低下した時点においては、直ちに麻酔及び手術を中断し、救命措置を開始すべき注意義務があった。

しかるに、被告らは、右注意義務に違反し、頻脈に続く徐脈の発生をみても、一郎に心停止が発生するまで、右のような措置をとることなく、漫然と高濃度のフローセン麻酔と手術を続行した。一郎の心停止は、右被告らの過失によりもたらされたものである。

(四) 救命措置についての注意義務の懈怠

(1) 除細動機を備え置かなかった過失等

心臓の機能がダメージを受けたとしても、<1>心音が聞き取れないだけで心臓にポンプ機能がまだ残っている場合、<2>ポンプ機能はないが、心室細動はあるという場合、<3>心臓の機能が完全に喪失して心室細動すらない場合、といった各段階がある。右<1>の段階では、異常の原因を除去し、心マッサージをするだけで正常に戻せる場合もあるが、<2>の段階まで進めばカウンターショックが必要となる。

しかるに、被告らは、心拍数の変化から読みとれる徴候(頻脈→徐脈による換気不全の徴候)を見逃して漫然と麻酔を続行し、更に麻酔を増量して濃度を上げて一郎の心停止を招き、心臓機能のダメージが心臓マッサージでは回復させることができない段階まで進行させたものである。

また、一郎には、心停止後心室細動が出ていたところ、この時点では、カウンターショックをかければ救命できる蓋然性が高いから、被告らにはその措置をとるべき注意義務があったのに、被告松本は、心停止の危険がある麻酔手術を実施する医療施設でありながら、除細動機を備えておらず(それ自体過失である。)、除細動機を取り寄せてカウンターショックを行い、あるいはそれに代わる除細動の措置をとることをしなかった。

(2) マッサージ施行上の過失

仮に、心臓のダメージがそれほどでなく、心マッサージで救命が可能であったとしても、被告らは適切、効果的な心マッサージを施行しなかった過失がある。

すなわち、一郎のような幼児の場合、成人の場合と異なり、拇指を除く四本の指先で、あるいは二本の指先で、前胸心臓部をリズミカルに圧迫して行わなければ効果的な心マッサージにならず、そのような心マッサージを施行していれば、一郎を救命できる蓋然性はあった。

しかるに、被告らは、右のような方法で心マッサージを行わず、拳で一郎に心マッサージを施行するなどしたものであり、そのため、救命できるものも救命できなかった。

(3) 気管内挿管による気道確保をしなかった過失

心停止後の一郎の蘇生術を施行するためには、まず気管内挿管による気道の確保が必要であり、そうしていれば一郎を救命できる可能性があった。

しかるに、被告らは、右の措置をとらなかった。そのため、一郎を救命することができなかった。

3 被告らの責任

被告らは、被告松本において執刀を、被告石井において麻酔をそれぞれ担当して本件手術を施行し、その際前記のような客観的な共同の過失行為(不法行為)によって一郎の死を招いたものであるから、民法七一九条一項の責任がある。

もしくは、被告らは、共同して一郎と締結した診療契約の債務不履行責任がある。

三  損害

1 一郎の損害

(一) 一郎は、被告らの不法行為により次のとおりの損害を被った。

逸失利益 三八九〇万円

〔計算式〕

四四二万五八〇〇円(昭和六二年度男子労働者の平均給与額)×一七・五七九(就労始期の一八歳から就労の終期の六七歳までの就労可能年数四九年に適用する係数)×〇・五(生活費控除割合)=三八九〇万円(一〇〇〇円以下切り捨て)

(二) 原告らは、右一郎の死亡により、同人の被告らに対する右損害賠償債権額の各二分一(一九四五万円)の債権を相続取得した。

2 原告らの損害

(一)  慰謝料

一郎は原告らの長男で、当時唯一の子であったのであり、その子を失った原告らの精神的苦痛を慰謝するには、原告らそれぞれにつき七五〇万円を下らない慰謝料が相当である。

(二)  葬儀費用等

原告太郎は、一郎の葬儀費用、仏壇購入費等のために、一〇〇万円を下らない支出をした。

(三)  弁護士費用

原告らは、本件訴訟の提起及び追行を原告ら訴訟代理人に委任し、その着手金、報酬として、原告太郎は二七九万円、原告花子は二六九万円の支払を約した(請求金額の一割相当)。

3 よって、被告ら各自に対し、不法行為(民法七一九条一項)もしくは診療契約上の債務不履行に基づく損害賠償として、原告太郎は三〇七四万円(前記1(二)、2(一)ないし(三)の合計)、原告花子は二九六四万円(前記1(二)、2(一)、(三)の合計)、及び右各金員に対する本件事故発生の昭和六一年四月一二日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払うよう求める。

第四 被告らの主張

一  本件手術の際の一郎の脈拍及び血圧の記録について

1 本件看護記録のうち本件手術後に記載されたのは一四時五二分の「心マッサージ開始」以降の記載部分であり(それまでの記載部分は、本件手術前及び本件手術中にその都度記載されたものである。)、その部分は、一郎に心停止が生じたため蘇生術が開始された段階で記載が中断されていた看護記録を、事後に関係者全員が集まって事実関係を確認して補足したものである。したがって、右一四時五二分より前の本件看護記録の記載は、本件手術時に記載されたそのままのものであって、何らの書き替えもなされていないのであり、本件看護記録が改ざんされた事実はない。また、本件麻酔記録が改ざんされた事実もない。

本件看護記録と本件麻酔記録とでは脈拍や血圧の数値に食い違いが多々あるが、そのような食い違いがそのままになっているということは、本件看護記録や本件麻酔記録に作為が加えられていないことを示すものである。原告らが主張するように、もし被告らが責任を免れる目的で本件看護記録の改ざんが行われたというのであれば、そのような食い違いは放置されず、両者の食い違いが一致するように改ざんされるはずである。

3 本件麻酔記録の脈拍数は、麻酔担当医の被告石井が、左前胸部に固定した聴診器による心音の聴取と、頚動脈の触知に加えてモニターも見ながら測って記載した記録である。他方、看護記録の脈拍数は、看護婦が橈骨動脈で測って記載したものであり、誤差の多い測定方法によるものである。右の測定者や測定方法からして、本件麻酔記録の方が正確性に優れていることはいうまでもない。

二  一郎の心停止の原因について

1 被告石井は、左前胸部に固定した聴診器で常時心音とともに呼吸音も聴取して、換気状態を監視し適宜補助呼吸を行っており、一郎には急変が生じるまでは見るべき異常もなく、窒息による呼吸停止や徐脈はなかった。本件で重篤な突発的変化が生じた原因は不明である。

一郎に何らかの心機能異常があった可能性があるが、解剖していないため解明不可能である(被告らは何度も原告らに解剖を勧めたが、原告らから拒否されたため、右突発的変化の原因の解明ができなかった。)。

2 麻酔手術中に生体に刺激が加わると直ちに反応して心拍数の増加を来すのはよく見られる事態であるが、浅麻酔といってもフローセンと笑気を併用した全身麻酔であり、笑気による鎮痛効果の程度や生体の反応性の個人差などによって、身体にメスが入った際に体動が見られたからといって、必ずしもそれに対応して直ちに心拍数の増加が見られるわけではない。手術の途中で麻酔深度が浅くなって、それまでは手術操作に反応しなかった心拍数が上昇するようになることもある。実際、本件麻酔記録のとおり、本件では執刀の際には急激な心拍数の増加は認められなかったが、その後に徐々に心拍数は増加し、一五分後に一六〇とピークとなったが、麻酔濃度の調整で数分後には一四〇ないし一二〇とほぼ正常な数値に戻ったのであり、これは不自然なことではない。執刀にも心拍数の変動を見せない事例も少なくないのである。

3 一郎の心停止の原因について、無視できない可能性として、本件麻酔記録のような状態にあった患者が腹膜や筋肉の牽引などの刺激で迷走神経反射を起こし、心停止を発生することがあっても不自然ではない。

原告らは、一般的に、心停止に至る過程においては、脈拍は突然ゼロになるということはなく、徐々に減っていくものである旨主張するが、正常な心拍動から突然心室細動を来すような場合には、突然に脈拍の触知が不能となって、脈拍がゼロになるということも十分起こり得る事態である。本件においては、そのような状態、すなわち予測されない突然の心停止が起こったのが事実である。それは、八〇から急激に落ちたことになる本件看護記録の脈拍の記録についてもいえることである。

また、一般論として、迷走神経反射は多発しているが、それによる心停止は稀であるし、一般には、その蘇生は容易であると考えられている。そのような前提から見れば、本件で行われた迅速・的確な心肺蘇生術によって心拍は速やかに回復したはずであるといわれるのも、十分に理由のあるところである。しかし、現実には回復しなかった。ただ、そのことから迷走神経反射による心停止を否定するのも早計に過ぎる。

むしろ、迷走神経反射による心停止も、常に回復可能なわけではない。また、心停止が必然的にもたらす脳血流の途絶は、いくら短時間であっても深刻な事態である。今日の医学では心停止後の蘇生の限界が明らかにされており、完全回復を保証できないのが実情である。

4 一郎に低酸素血症が生じていたという事実はなく、低酸素血症による心停止が起こったとは考えられない。原告らがその根拠とする陥没呼吸が一郎に生じた事実はない。一郎に陥没呼吸が見られていたとしたら、被告らが本件手術を開始したり、継続したりすることはありえない。

低酸素による心停止を考えるのは、血圧の推移(本件看護記録のそれによっても)が矛盾する。しかも、低酸素血症で心停止に至るような場合には、チアノーゼが生じ(爪、口唇の色、術野の血液の色により直ちに診断可能である。)、同時に徐脈となってくるのが普通であるが、一郎にはそのような状態は見られていないのであり、到底一郎に低酸素血症が生じていたとはいえないのである。心拍数の変化のみで低酸素状態を判断することはできない。

また、原告らは、本件看護記録が改ざんされたと主張しながら、それに記載された脈拍数の変化を根拠として、執刀後の脈拍数の変化が遅く、一五分間程頻脈が続くのは、浅麻酔によるものではなく、低酸素血症によるものであると主張するが、本件手術の開始当初には麻酔深度は必ずしも一定しておらず、徐々に脈拍数が増加することも異常な状況ではないし、一郎に発生した頻脈も数分内で治まっており、その後の脈拍数は、血圧とともに安定していたことからみて、換気不全による低酸素血症が生じていたとは考えられない。

5 本件手術中、一郎には気管支痙攣は起きていない。心停止が起こるまでの呼吸状態に全く問題はなかったし、急激な気道閉塞による換気不全から心停止が起こったということもあり得ない。

麻酔中の心停止の原因は解明されつくしている訳ではなく、原因不明の心停止が無視できない割合を占めているのは常識である。

三  被告らの無過失について

1 問診及び術前検査について

被告松本は、一郎につき外来診察で異常のないことを確認していたし、本件手術当日も、問診を含めた診察をして、理学的知見や全身状態から全身麻酔による手術について問題のないことを確認し、また、体重、体温、血圧、脈拍等の測定もした。念のため術前から心電図検査をしようとしたが、一郎が泣いて興奮し、協力が得られなかったために実施できなかった。電解質検査は当日では間に合わないので行わなかったが、それまでの診察の間に、一郎に右検査を実施しなければならないと思わせる所見や経過はなかった。

2 術中管理について

(一)  被告らは、本件手術中、一郎につき、<1>心電図のモニタリングの継続、<2>聴診器を一郎の左前胸部に固定しての心音・呼吸音の聴取の継続、<3>五分間隔で血圧測定を行うなどし、十分な監視を行った。

フローセン麻酔では、不整脈に留意すべきことが指摘されているところである。原告主張の数値(本件看護記録による)は、被告石井による本件麻酔記録の数値とずれがあるが、それはともかく、一過性のもので間もなく落ち着いており、その間血圧には変動もなく、ショックといえるようなものではない。被告らは、十分な監視により、麻酔の続行に影響するような不整脈のないことも、呼吸音が正常であることとともに確認している。

記録が相違していることについては、被告石井作成の麻酔記録である本件麻酔記録の数値が正しいことは前述のとおりであるし、本件看護記録によっても血圧には異状はない。

(二)  一郎に対する麻酔施行は、導入段階はマスクを手持ちで行い、途中からはマスクをヘッドバンドで固定していたが、被告石井は、マスクのヘッドバンド固定後も、麻酔中は、常に血圧、脈拍、呼吸状態などの監視を怠ることなく、フローセン濃度についても、血圧、脈拍、呼吸状態などを細心の注意を払って観察して微調整を行いながら麻酔管理を行ったものであり、不適切なところはなかった。

本件麻酔記録は正確であり、それによれば、フローセン濃度二パーセントのまま心停止まで続いているようになっているが、二パーセントは上限であって、実際には被告石井は一郎の循環動態や呼吸状態を見ながら調節しており、麻酔濃度が過度であったということはない。

(三)  被告石井は、バッグによる麻酔管理を行っているので、換気不全は生じていない。

3 救命措置について

(一)  被告らは、一郎の突然の心停止後、直ちに次のとおりの蘇生措置を全力を上げて行った。

(1) 一郎の心停止発生後、被告石井は直ちに一郎に気管内挿管(小児用の一六号気管チューブを使用)して確実な気道確保を行い、バッグによる適正換気を行った。本件手術の際には、麻酔中の換気不良が生じた場合に備えて、右気管チューブを手術室に準備していた。

(2) 心マッサージを行った。

乳幼児の心マッサージの方法については、一般に、指一、二本を用いて圧迫し、胸骨が一・五ないし二・五センチメートル程沈む程度(成人では三・五ないし五センチメートル)に圧迫する力で行うと成書には記載されている。しかし、条件によっては成人と同様な方法で行っても問題はない。一郎は二歳前の幼児であったが、比較的体格が良好であり、心マッサージ中の胸部の動きを見ながら行われているので、有効な心マッサージができており、更にその状態について心電図モニターで確認しながら行われた。したがって、被告らの行った心マッサージの方法に不適切な点はない。

(3) 必要に応じて強心剤(ボスミン等)を使用した。

現在ではボスミンの心腔内注入は特別の場合のみしか行わないのが常識である。本件でも、実際に、心停止後の心肺蘇生に際して、最初にボスミンの静脈注射を二回行いながら心マッサージを続けたが、その効果が得られず、心マッサージを一時間以上続けた後に、最後の手段としてボスミンの心腔内注入を行ったのであり、その後の最終段階で静脈注射を追加したこととともに、手順に問題はない。

(二)  松本外科には除細動機が配備されていなかったため、被告らは一郎にカウンターショックの蘇生術を行えなかったが、本件当時、松本外科程度の診療所に除細動機の配備を求めるのは無理であったから、被告らが右救命措置を行えなかったことに過失はない。

のみならず、心室細動が短く心停止に移るのが早かった本件の場合には、一郎の心停止後速やかに除細動機を使用してカウンターショックの蘇生術をとっていても心停止を防ぐことはできないし、蘇生術の過程でわずかな心室細動しか現れなかった本件では、カウンターショックの蘇生術により一郎を救命できた可能性はない。

(三)  一郎の心停止後、速やかに適切な蘇生術が行われたのに蘇生できなかった原因として、何らかの潜在的な疾患を合併していた可能性を否定することはできない。臨床的には何の症状もなく、心電図などの一般的な検査では診断困難な心疾患、例えば、大動脈弁狭窄症、特別性心筋症や心筋炎などを合併していたかもしれない。

(四)  したがって、被告らの救命措置に何ら過失はない。

四 被告らの責任について

以上のとおり、本件事故は、的確な手術を遂行する過程で発生した予見・回避不能の事故であり、被告らに何ら責任はない(なお、被告石井が診療契約責任を問われる理由はない)。

第五 判断

一  事実経過

《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

1 一郎は、昭和六〇年七月一五日、被告松本により両鼠径部の硬結(先天性ヘルニア)と診断されたが、その後次第に硬結が増大し、頻回に硬結が認められるようになったため、被告松本から根治術が必要と診断されてその手術を受けることになった。そして、昭和六一年四月一〇日、被告松本から原告花子に二日後の同月一二日の午後に右手術を行う旨の連絡がなされ、一郎は、同日(一二日)午前九時二〇分ころ、原告花子に付き添われて松本外科に入院した。

2 被告松本は、幼児のヘルニアの麻酔手術は多数例経験していた。また、被告松本は、松本外科で麻酔を要する手術を行う場合には、以前から、神戸大学医学部の後輩に当たり、当時同医学部附属病院の第二外科(心臓血管外科、胸部呼吸器外科、消化器外科等)の助手として勤務していた被告石井に頼んで麻酔担当医として手伝ってもらっており(その中には、ヘルニアの手術も多数あった。)、本件手術も全身麻酔の手術であったことから、予め被告石井に麻酔担当医として補助を依頼し、その承諾を得ていた。

3 一郎の右入院後、看護婦が一郎の体重及び身長を測定しようとしたが、一郎が嫌がったためその測定はなされず、体重だけは原告花子が自宅で測った結果(一三キログラム)を看護婦に伝えた。また、一郎は、看護婦により体温、脈拍、血圧の各測定をされたが、右血圧測定の際泣いて嫌がった。

被告松本は、ヘルニアの手術を行う場合には、その三、四日前に必ず診察し、聴診器で患者の全身状態を調べ、心電図と、赤血球、白血球、ヘマトクリット、血液像、血小板等の一般検血を行っていたが、一郎について右一般検血を行わず、また、心電図は、手術の際のモニターで判断できると考え、術前検査として行わなかった。

一郎につき作成された診療録中の麻酔記録の裏面には、「麻酔術前記録」の記入欄が設けられており、その「一般状態」の「体重」欄には一三キログラム、「体温」欄には三六・七度、「脈博数」欄には一〇二/」と記入されているが、「既往歴・自覚症状(心肺疾患留意)」、「呼吸数」、「口腔咽喉」、「心臓」、「肺」、「腹部」等の欄には何も記入されておらず、また、「検査所見」の「検血」、「検尿」、「呼吸関係」、「心電図所見」、「肝機能所見」の各欄にも何も記入されておらず、「術前状態」の「血圧」欄に「一〇二/」、「脈博数」欄に「一二〇」と記入されている。右記入のない部分の検査は行われていない。

4 同日(一二日)午後一時ころ、一郎は、前投薬として硫酸アトロピンを腎部に注射され、その後三〇分余り経ってから手術室に入れられた。一郎は、右注射をされた時から泣きだし、手術室に入るのを泣いて嫌がったが、原告太郎は右手術室前で一郎を看護婦に引渡した。

5 被告石井は、本件手術開始予定時刻に松本外科に到着するのが遅れた。被告松本は、被告石井の到着前に、同被告がそのうち到着するだろうと考えて本件手術の準備を始めたが、手術室に入った一郎が泣いて興奮状態にあったため、看護婦らが一郎を両脇から押さえつけ、その状態で被告松本が一郎に対してマスクによるGOF麻酔(笑気ガス、酸素、フローセンを一緒に投与する麻酔・以下単に「麻酔」という。)の導入を開始した(それが一三時三〇分ころである)。そのうち麻酔が効き始めて一郎が静かになったので、看護婦らが一郎の手足を抑制し、一郎に心電図モニター、血圧計及び聴診器を固定装着した。そのころ、本村は、一郎のみぞおち辺りが呼吸する度に陥没するような状態になるのを認めた。その後間もなく(同四〇分ころ)被告石井が手術室に入ってきたので、被告松本は、被告石井に麻酔管理を引き継いだ。なお、心電図モニターの記録は、後記一郎の心停止発生までは取られていなかった。

6 本件手術に立ち会った看護婦は、手術を直接に介助するいわゆる清潔(消毒)看護婦として小川千加子、血圧・脈拍・呼吸数等の測定、看護記録の記載、薬品・衛生材料・手術器具等の補充を行ういわゆる不潔(不消毒)看護婦として嵐千佐子、長谷、岸本、本村の五名であった。

看護婦が行う血圧及び脈拍の測定は、血圧は腕部にマンシェットを巻いて行い、脈拍は手首の橈骨動脈で測定した。脈拍を測定した看護婦がその時の血圧も測定するのが通常であるが、その測定者が異なる場合もあった。看護婦が血圧及び脈拍を測定した場合は、その結果はその都度医師に報告し、また、手術室に備え置いてある看護記録に記載するが、測定した結果のすべてが右看護記録に記載されるとは限らず、その記載も、測定した者自身がする場合と、測定した者から測定結果を聞いた他の看護婦が記載する場合とがあった。

本村は、被告松本の執刀前から一郎の脈拍及び血圧の一方又は両方の測定をしたが、脈拍の測定は、橈骨動脈で五秒間測って確認した脈拍数に一二を乗じた数を一分間の脈拍数として医師に報告し、看護記録に記載した。本村は、被告石井が手術室に入ってくる前に右方法で測定した一郎の脈拍数が二〇〇を超えたことがあったので、それを被告松本に報告するとともに、被告石井の手術室入室後同被告に報告した。

7 一四時ころ、被告松本の執刀で本件手術が開始された。被告石井は、心電図モニターで脈拍数を確認し、聴診器(左前胸部に絆創膏で固定)で心音を聴き、心拍数を計り、更に一郎の頚動脈をマスクを保持している手の小指で触れて脈拍を測るなどして、麻酔管理を行った。被告石井は、右の方法による測定結果をその都度麻酔記録に記載したが(ただし、心停止後の分は蘇生術が終わった後に記載した。)、脈拍については、看護婦の測定結果の報告も聞いて、被告石井自身が間違いないと思った測定結果を記載し、血圧については看護婦の測定結果を記載した。

被告松本は、一郎の下腹部を横切開し、先ず右側から手術を行ったが、ヘルニア嚢の壁は肥厚著しく、周囲と強固に癒着していたので、これを剥離し、ヘルニア嚢の内腔に迷入していた直径約四センチメートル位の小腸を還納し、できるだけ高位にヘルニア嚢を結紮切断し、ファーガソン法で鼠径管前壁を強化し、次いで左側の手術を開始した。

右被告松本の執刀開始後、同被告のメス操作時に一郎が動いたので、被告石井は麻酔がまだ浅いのではないかと考え、フローセン濃度を二パーセントから二・五パーセントに上げ、その後血圧が少し下がり気味になったので、フローセン濃度を二・五パーセントから二パーセントに下げた。

被告松本が左側の手術開始後間もなくの一四時四八分ころ、被告石井は一郎に無呼吸、心停止が生じたことに気づき、被告松本にその旨告げて手術を中止するよう求め、被告松本は直ちに手術を中止した。

8 そして、被告らは、一郎の切開部をそのままにした状態で、直ちに気管内挿管して酸素(それまでの倍量の四リットル)を流入し、また、心マッサージ、強心剤の投与(心停止後の最初は、点滴路の三方活栓から、ボスミン、メイロン、塩カル、ソルコーテフ等を静脈注射、その後ボスミンの心腔内注射等)、その他の治療を行った。一郎の心停止後の当初一郎に心室細動が見られたが、結局一郎は蘇生せず、死亡した。

なお、当時松本外科には除細動機は配備されていなかったため、これによる救命処置は行われなかった。

9 本件手術日の後日、被告らは、看護婦の長谷と岸本を松本外科の院長室に呼び、同人らに対し、本件手術時の経過・処置等について確認、整理したいとしてその協力を求め、既に被告石井が看護記録用紙に一部記載していた部分を除く空白部分の処置、経過について尋ねてその空白部分を埋める形で看護記録のメモを作成した。そして、右メモの記載内容が、本村ら他の看護婦の協力も得て本件手術の際に作成されていた看護記録とは別の看護記録用紙(本件看護記録用紙)に記載されて、本件看護記録が作成された。

二  争点1(看護記録等の改ざんの有無)について

1 証人本村は、「本件看護記録は本件手術の際に作成された看護記録とは別のものである。本件手術の際に作成された看護記録には、自分が被告石井の手術室入室前に測定した二〇〇を超える脈拍数を記載したし、また、脈拍や血圧の記載空白部分はなかった。本件手術の際に作成された看護記録記載の脈拍等の数値と、本件看護記録記載のそれらの数値とは違う。」「本件手術の日の一、二週間位後、岸本と長谷の両名から、メモ用紙を示され、それに記載されている数字を本件看護記録に当時あった空欄部分に記入するよう頼まれ、その示された数字やその他の記載事項が自分の記憶するところと違ったので、右の依頼に応ずることを躊躇したが、長谷から院長先生の気持を考えて右メモ用紙記載のとおり本件看護記録に記載するよう協力を頼まれ、結局これに応じて本件看護記録の空欄部分(一三時三二分から同五八分までの記載部分と一五時から同二五分までの記載部分)に、右メモ用紙に記載されていたとおりの内容を記載した。」旨供述する。

これに対し、証人長谷及び被告石井は、「本件看護記録の一四時五〇分までの記載部分は、本件手術の際に看護婦により記載されたものそのものであり、その一四時五二分以降の記載部分は、一郎の心停止後の蘇生術のために本件看護記録への記載が中断していたことから、本件手術の日の夜かその翌日に、被告石井と長谷及び岸本らが右中断中の経過を確認したところを被告石井が乙八として作成し、その記載内容を本件看護記録に追加記載したものであり、本件看護記録は本件手術の際の看護記録そのものである。」旨供述する。

しかしながら、証人本村は、「一郎の脈拍及び血圧は、麻酔導入開始後二分ないし五分間隔で測定した。血圧を測った時には必ず脈拍も測り、その両方を看護記録に記載した。」旨証言し、その信用性を疑わせるような事情は窺えないところ、本件看護記録には麻酔導入開始の一三時三〇分ころから執刀の一四時ころまでの間脈拍数は記載されていない。また、証人岸本及び同本村の証言によれば、岸本が本村に対して本件看護記録の空欄部分への記載を求めた際、本村は長谷に対し「偽証するんですね。」と述べたことが認められるところ、右本村の発言は、同人において本件看護記録の記載内容が本件手術の際に作成されていた看護記録のそれとは違うものと認識していたことを窺わせるものであり、もし証人長谷や被告石井らの供述するとおりの経過で本件看護記録が作成されたのであれば、本村が長谷に右のようなことを述べたりしなかったであろうと考えられる。

更に、被告石井は、「看護婦が脈拍が一八〇とか、八〇とか、異常な数値を報告したので、測り直すよう指示したことが二、三回から五回位あった」旨供述するが、被告石井が本件手術中に看護婦に対して右のような指示をしたのであれば、手術室にいた看護婦だけでなく被告松本においても右被告石井の指示を聞き、これを記憶しているものと考えられるところ、被告松本や看護婦らはいずれも被告石井の右指示を聞いた記憶がない旨供述しているし、もし真実被告石井が看護婦に測り直しを指示したのであれば、その再測定の結果を被告石井が看護婦に確認しないということはあり得なかったと考えられるところ、被告石井は、「(右指示に対し)看護婦は測り直した数値は言わなかったと思う。私はちゃんと確認していない。」旨の供述もしていることからして、右被告石井の看護婦に脈拍の再測定を指示した旨の供述部分は採用し難いだけでなく、被告石井の右供述は、本件手術中に看護婦が被告石井に報告した脈拍数につき、本件看護記録や本件麻酔記録の記載とは異なる異常と見られる数値があったことを窺わせるものといえる。

加えて、もし右証人長谷及び被告石井の供述するような理由で看護記録の追加記載をするのであれば、本件手術に立ち会った看護婦全員が集まって事実関係を確認する方法がとられるのが自然と考えられるが、実際にはそのような方法はとられていない(医師である被告らが一部の看護婦から聴取して本件看護記録の原稿的メモが作成されたことは前記認定のとおりである。)。

これらの点に、本村に同人の記憶と異なる虚偽の証言をするおそれがあるような事情は認められないことを合わせ考慮すれば、証人本村の前記証言はそれなりに信用性のあるものといえ、本件看護記録は同証人が証言する経過で作成されたものと認めるのが相当である。

2 右の本件看護記録の作成経過にかんがみると、本件看護記録の記載内容は本件手術の際に作成されていた看護記録の記載内容と異なるのではないかとの疑念が残る。もし、本件看護記録の内容が本件手術の際に作成されていた看護記録と全く同じ内容のものであれば、本件看護記録を別に作成する必要はないと考えられるからである。そして、本件手術の際に作成されていた麻酔記録記載の血圧の数値は、看護婦が測定した数値を記載したものであることは前記認定のとおりであるところ、本件麻酔記録記載の血圧の数値は、本件看護記録記載の血圧の数値と殆ど同じであるから、本件麻酔記録の記載内容もまた本件手術の際に作成されていた麻酔記録の記載内容と異なるのではないかとの疑念が残る。なお、証人本村は、同人が測定した一郎の血圧の数値に異常は感じなかった旨証言するが、同人は執刀開始前後に血圧の測定を長谷に引き継いでおり、右証言も右引き継ぎまでの状態に関するものである。

被告らは、脈拍の数値については、被告石井の測定方法(左前胸部に固定装着した聴診器による心音の聴取、心電図モニターによる測定等)の方が看護婦の測定方法(橈骨動脈による測定)よりも正確性に優れているとして、本件麻酔記録記載の数値の方が一郎の脈拍の推移を正確に示すものである旨主張する。

確かに、測定方法の正確性の点では、被告石井が行った方法の方が優れているといえる。しかし、問題は、本件麻酔記録の内容が、本件手術の際の測定結果を正確に記載したものかどうかという点にあるのである。前述の本件看護記録作成の経緯に照らせば、本件看護記録は被告ら医師の主導で、本件手術の際に作成されていた看護記録とは別に作成されたものと認められるのであり、看護記録(本件看護記録)を新たに作成する合理性も見い出せないところからして、本件看護記録の記載内容には本件手術の際に作成されていた看護記録の内容と違う部分が含まれている疑いが生じ、そうであれば、本件麻酔記録もまた、本件手術の際に作成されたものとは別に作成されたものである疑いが生じる。

3 もっとも、証人本村は、脈拍の数値について前記証言にかかる部分を除いては本件看護記録の記載内容の誤り部分(本件手術の際に作成された看護記録の記載内容との具体的相異値)を指摘できないことや、本件看護記録は本件手術に立ち会った複数の看護婦が作成しているものであることからして、その記載内容が本件手術の際に作成された看護記録の記載内容と大幅に違うものにされたとは考え難いことなどを合わせ考慮すれば、本件看護記録の記載内容は、本件手術の際に作成された看護記録の記載内容と相異する点があったとしても、脈拍や血圧の大まかな変動傾向は、本件手術の際に作成された看護記録の記載内容と類似のものであった可能性はある。

他方、一郎に心停止が生じたことからすれば、本件麻酔記録の脈拍及び血圧の数値には後述のとおり不自然なところがある。

したがって、本件手術の際の一部の脈拍については、本件看護記録のそれを基本にして本件を考察するのが相当と考える。

三  争点2(被告らの過失の有無)について

1 一郎の心停止の原因について

(一)  本件看護記録の記載によれば、一郎の脈拍は、一〇四(一四時・執刀時)→一二五(一四時二分)→一六〇(同二分)→一八〇(同一五分)→一二〇(同二〇分)→九六(同三〇分)→八〇(同四一分)と推移しており、その後同四八分ころ心停止に至ったことは前記認定のとおりである。

右によれば、一郎の脈拍は、執刀時から上昇を続けて一五分後一八〇という頻脈状態を呈し、その後は減少し続け、二一分後(心停止の約七分前)には八〇まで減少している。

他方、本件看護記録記載の一郎の血圧は、執刀前から心停止の三分前ころまで九〇ないし一〇〇台(収縮期)/六〇ないし七〇(拡張期)で推移し、その推移に格別異常は読みとれない。

(二)  《証拠略》によれば、医学的知見として次の諸点が指摘されていることが認められる。

(1) 全身麻酔は、程度の差はあれ循環系を抑制し、その合併症も、一時的な不整脈より重篤な心停止まで多岐にわたり、どのような患者にも合併症の発生は否定し得ない。

(2) 麻酔中の心停止の原因は、<1>麻酔あるいは麻酔管理に原因するもの、<2>手術に原因するもの、<3>患者自身に原因があるものとに大別され、右<1>の関係では、麻酔の過剰投与、吸気酸素濃度の低下、換気不良、気道閉塞による窒息等の低酸素症、炭酸ガスの蓄積、自律神経の過度の刺激、交換神経・副交換神経の不均衡等が原因となり、右<2>の関係では、手術刺激による迷走神経反射、空気栓塞、出血性ショック等が原因となり、右<3>の関係では、冠不全、心筋梗塞、刺激伝導障害などの心疾患が麻酔中の循環障害を引き起こし心停止の原因となる。

また、右麻酔中の気道閉塞は、舌根沈下、喉頭痙攣、気管支痙攣等が原因で起こることがあるが、舌根沈下による気道閉塞は、意識状態の悪い患児を仰臥位にすると起こしやすく、その症状としては、横隔膜の奇異運動、チアノーゼなどですぐに発見できる。喉頭痙攣は、麻酔が浅く声門部の反射が残っている状態で、喉頭部を機械的刺激したときに誘発され、気管支痙攣は、麻酔中に発生する一種の喘息であり、副交換神経緊張状態にある時期に気道内に機械的刺激が加わると誘発される。

(3) フローセン、笑気等の麻酔薬は不整脈を発生させることがあるが、低酸素症も不整脈の原因となり、心疾患を有する小児も不整脈が発生しやすい。また、頻脈は、浅麻酔、循環血液量減少(出血、脱水)、心不全等により発生し、不整脈と共に心停止に移行する原因となりうる。換気不全が生じた場合には、まず頻脈が生じ、その後心筋抑制が起きて徐脈に至る。したがって、その治療としては、原因の究明とともに、手術操作の一時中断、十分な換気等をまず行う必要がある。

(4) 血圧の上昇は、浅麻酔時の刺激、炭酸ガス蓄積等を原因として起こり、血圧の下降は、麻酔薬の過重、迷走神経反射等の神経反射、換気不全、心不全等を原因として発生する。

(5) フローセンを使用する麻酔では、フローセンの濃度を〇・五ないし一・五パーセント程度、笑気の濃度を五〇ないし七五パーセントとして一緒に与えるのが通例であるとの指摘もあるが、小児麻酔においてフローセンの二ないし三パーセントの濃度は、必ずしも高濃度とはいえないともされる。しかし、結局は、麻酔の濃度や量の適否は、患者の個体差、吸入量、吸入時間等に左右されるものといえる。

(6) 迷走神経の刺激による迷走神経反射により心停止が生ずることはあるが、その場合には蘇生は比較的容易であり、一郎に施された程度の蘇生術で通常心拍の再開が生じる。

(三)  証人福増廣幸は、麻酔導入時一郎に陥没呼吸が生じていたことを理由の一つして、一郎に舌根沈下が生じ、これが低酸素症から心停止に至る原因となった旨証言する(《証拠略》にも同旨の記載がある)。

確かに、本村は、麻酔導入時一郎が呼吸する度にみぞおち辺りが陥没するような状態になるのを見ているが、それがいわゆる気道閉塞から生ずる陥没呼吸であったかは必ずしも証拠上明らかではない。のみならず、舌根沈下による気道閉塞の場合には、チアノーゼが生ずることから発見が容易であるとされているところ、本件手術中に一郎にチアノーゼが生じたことは認められない。

したがって、一郎に舌根沈下が生じていたと認めるに足りる証拠はなく、舌根沈下が原因となって一郎に低酸素症が生じたとする右証人福増廣幸の意見は採用し難い。

(四)  被告松本は、本件手術に当たって、本件手術のような手術を行う際には通常行われるべき一般検血、心臓、肺その他の検査を行っていない。被告松本は、検血は一郎が泣いて嫌がる状態にあって実施に危険であったから行わなかった旨供述するが、一郎が血圧の測定や手術室に入るのを泣いて嫌がったのはまさに本件手術の直前であり、右のような検査は通常は手術日より前にしておくべきものと考えられる(被告松本もその旨供述する)ところ、本件手術日前に右諸検査の施行が試みられた形跡はないから、右一郎の状態が通常行われるべき手術前検査をしなかった理由であったとは考えられない。

それにもかかわらず、被告松本において一郎につき右通常行うべき術前検査を行わなかったのは、それまで行ってきた一郎に対する診察等から、一郎に心疾患その他麻酔不適応の点はないものと診断したためと推認される(それにしても、一郎のような幼児に前記通常行うべき諸検査も行わずに本件のような手術を施すというのは、無謀な感を否めない)。

そしてまた、一郎に何らかの心疾患が存在した徴候は認められない。

そうであれば、一郎の心停止ないし蘇生不能が、一郎の何らかの心疾患による可能性は否定されるといえる。

また、本件手術時一郎の喉頭部に機械的刺激が加えられた形跡はないから、一郎に喉頭痙攣や気管支痙攣が生じた可能性はないし、その他本件手術の施行状態等に照らし、一郎の心停止の原因が切開縫合手術自体あるいは一郎自身の身体的疾患にあった可能性は少ない。

(五)  以上の点からすれば、本件麻酔記録のように、何ら異常の窺えない脈拍数の状態で推移した後、突然心停止に至るというようなことは考え難いもので、その脈拍数値の記載は不自然というほかないから、本件麻酔記録の脈拍数値の記載は採用できない(なお、本件麻酔記録の血圧の数値についても、それが本件手術時に測定された数値であるかについては疑問が残る)。

(六)  以上によれば、一郎の心停止は、麻酔薬の過剰投薬による低酸素症ないし換気不全による不整脈が原因した可能性が大きいといえる。

被告石井及び証人村田洋は、マスク麻酔においては、マスク操作等により平均的に患者に吸入される麻酔は投与麻酔濃度の半分程度になる旨供述するが、一郎にはマスクはマスクバンドで固定装着され、密閉性が高かったといえること、本件看護記録にも見られる一四時一五分の頻脈から以降は脈拍は急激に減少状態となり、そのまま心停止に至っていること等の点を考慮すれば、一郎に対する投与麻酔はさほど分散されずに吸入されていた可能性を否定しきれないというべきである。

2 そして、前述したところからすれば、被告らのような麻酔施行による手術の経験を有する医師であれば、少なくとも一四時四一分ころまでには、一郎の脈拍の変動状態からその異常を疑い、そのまま放置すれば心停止に至ることもありうることを予見することは可能であったと認められる。

したがって、被告らは、共同して本件手術に当たっていた医師として、右一郎の脈拍の異常(不整脈)を疑い、本件手術を一時中断して右異常の原因を究明し、その除去のための処置(麻酔の中断、十分な換気)をとるべき注意義務があり、そうしていれば一郎の心停止、したがって一郎の死亡を回避することができた可能性があったといえる。

しかるに、被告らは、右注意義務を怠り、右一郎の異常を見落とし、本件手術及び麻酔施行を心停止まで継続したもので、被告らには過失があったといわざるを得ないから、被告らには民法七一九条一項の共同不法行為責任がある。

四 争点3(損害)について

1  一郎の損害

(一)  一郎の死亡による逸失利益

一郎が死亡(本件手術)当時一歳一一か月であったことは前記認定の事実関係から明らかであり、昭和六二年度の賃金センサスによれば、同年度の男子労働者の平均給与額(企業規模計・産業計・学歴計)は一か年四四二万五八〇〇円であることが認められるところ、一郎は、死亡しなければ一八歳から六七歳まで就労が可能であり、一郎の生活費は収入の五〇パーセントと考えられるから、一郎の死亡による逸失利益を年別のホフマン式(新ホフマン式係数一七・〇二三六)により年五分の割合による中間利息を控除して算定すると、三七六七万円となる。

(算式)

4,425,800円×17.0236×0.5=37,67万円(1000円未満切り捨て)

(二)  前記認定の事実関係及び弁論の全趣旨によれば、原告らは、一郎の死亡により、同人の被告らに対する右損害賠償債権額の各二分一(一八八三万五〇〇〇円)の債権を相続取得したものと認められる。

2 原告らの損害

(一)  慰謝料

被告らの不法行為の内容、その他前記認定の諸般の事情(殊に、本件手術はそれほどの難手術であったわけではなく、原告らにとっては一郎の死亡は夢想だにしなかったことであったと思われること)を考え合わせると、一郎の死亡により原告らが受けた精神的苦痛に対する慰謝料額は、原告らそれぞれにつき七五〇万円と認めるのが相当である。

(二)  葬儀費用等

《証拠略》によれば、原告太郎は、一郎の葬儀費用、仏壇・仏具購入費等のために一〇〇万円を下らない支出をしたことが認められる。

(三)  弁護士費用

本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らすと、原告らが被告らに対し被告らの不法行為による損害として賠償を求め得る弁護士費用の額は、原告らそれぞれにつき二七〇万円と認めるのが相当である。

3 以上によれば、被告ら各自に対し、原告太郎は三〇〇三万五〇〇〇円(1(二)の相続分と2(一)ないし(三)の合計)、原告花子は二九〇三万五〇〇〇円(1(二)の相続分と2(一)、(三)の合計)の各損害賠償請求権及び右各金員に対する被告らの不法行為の日である昭和六一年四月一二日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金請求権を有するものと認められる。

第六 結語

よって、原告らの請求は主文第一、二項の限度で理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、九二条但書、九三条一項但書、仮執行宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 竹中省吾)

裁判官 小林秀和 裁判官 中島真一郎は、転補のため署名押印できない。

(裁判長裁判官 竹中省吾)

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